理解ということ。

 自分がどう思うかではなく、相手がどう感じるかという方が重要な気がする。あらゆる意味での言語活動を通してしか意思の疎通ができないからには、けっして分かり合えるということなんてないだろう。しかし、その理解を促すのが文学であり、小説や映画や音楽、あるいはこっそり交わされる噂話でもいいのだが、それらが語るところの、ある事象に対する人の気持ちを通して感じることができるのではないかと思う。だから相手がどう感じるかを考えることは重要だ。十人十色だし千差万別の反応を示すわけだが、しかし、ある個体、一人の人間に絞って考えれば、ある一定の規則というものがある程度見えてくるし、それが見えなければ、そもそもが到底交流などというものが存在しえるはずもない。主体が他者の本質を見ることはできないが、しかしその周りに現れる象徴を、主体の周囲の象徴を通して知ることができるなら、ある程度の理解は可能だと思う。
 自分でも何を書いているのか良くわからない。ただ、昨晩のあの話題がきっかけで、彼女に対して抱いていた違和感のようなものが見えてきたような気がする。
 彼女は相手の心を理解しようとは思っていないのではないかと僕は考える。彼女は自分の理解し得ないもの納得のいかないものに対して何も謝罪しようとはしない。たとえそれで相手が傷ついたとしても。それは自分が理解でき無いのだから自分のせいではなく、相手が間違っているのであると。そこに僕は大きな違和感を覚える。
 たとえ自分が理解できなくとも、それは相手にとって何か重要なことであり、それによって自分が相手の気分を害したり傷つけたりしたのならば、当然謝罪してしかるべきであると僕は考える。理解することは重要ではあるが、しかし、先にすべきは相手を害したという事実に対する謝罪だ。その先に理解があるのではないかと僕は思う。
 当然僕自身も相手が完全に僕を理解できるとは思っていないし、僕も相手を完全に理解しえるとは思わない。だから、相手には自分の理解の及ばない一本の「芯」のようなものがあり、その「芯」があるということを理解し尊重するということが必要なのではないかと思う。その「芯」があるということに対する理解を示すのが謝罪ではないのかと。
 僕がすべて間違っているのだろうか。