『複製技術の時代における芸術作品』メモ

礼拝的価値が展示的価値に駆逐されて行くとき、人の信仰はどこに行くのだろうか。

礼拝は、崇めるための形象を必要とした。

ならば、芸術作品から駆逐された礼拝はどこへ向かったか。
一部は顔の写真。ここで考えたのは科学と技術がその一端を担ったのではという事。ただ、形象としての科学だと、それは自然現象にたいするものであるから、矛盾が生じるし、技術に関していえば、それこそが礼拝を駆逐する道具であるからなんか変だ。

そう考えると、あるいはやはり、「礼拝は、崇めるための形象を必要と」しなくなったのではないかと。厳密にいえば必要なんだけど、つまりマトリックス的な。という事は現象認知学に次は手を出さないといけないわけですか……。