アートについていろいろ。

 ・http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51154458.html
 ハテブのランキングにあったので見てみた。

93 みつ :02/11/19(火) 00:31(太字は俺)
作者側は他の文化のルールを知っておくべきだけど、観賞する側は、知的好奇心をそそるかそそらないか程度でいいんじゃないかと、ぼくは思うな。
本来(っていうか理想?)は、同世代(同時代)のしっかりした意図がある作品は、知識があるなしに、共鳴するものがあるんじゃないだろうか。
血が騒ぐとか、逆に目障りとか、むかつくとか、気になるとか。まずそれがないと(素の)鑑賞者はその先に踏み込まないと思う(記憶に残らない)。
知識や勉強は興味がわけば自然と行うだろうし。

 太字の部分は正に「ポップ」なのだが。つまりそれが造形的に美しいのであれば「美術」で、奥行きのある思想なり哲学なりがあれば「芸術」ということなのだろうか。どちらにしても制作側には相応の知識が必要。
 かじった図像学にあるようにその図像の意図するところが観る者の共通認識によっているというのがある。でもそれは専門的な知識と言う物ではなく宗教的なものだったり習慣的なものだったり。というか、その両者は絡み合っているわけだが。つまり日常。

・(絵は)具体性を持つことでトータルな認識が可能になる

小松左京高階秀爾「絵の言葉」-p16

とゆうことで、観る者が理解しているところの物を視覚的に表しているからこそ認識が可能になる。特にバロックなんかは教会屋さんが必死だったし。ルネサンス後のマニエリスム辺りになるとどうやら図像も複雑化してきて宮廷なんかの知識階級の人がみるための物的な感じになるらしいが。
 つまりその、図像を読んで絵を理解するという点から見ると、その文化なり時代なりの共通認識を持っていなければならない。基礎知識の方がいいのかな。あるいは一般常識なり教養なり。それはまあ日常のしぐさや言語においても言える事だが、例えば英語は左から右へ読み書きするが、縦書きの日本語は右上から左下へだし、戦前辺りだと横書きでも右から左とか。ある地域では人差し指と中指の間に親指を挟んで先をちょっとだすとアレだったり、中指を立てるとかまあ色々ある。こういう視覚によるトータルな認識というのがそれ。そしてこれを用いて大衆に受け入れられる、支持を得る、流行するというのがつまりポップなのか。そして、ここから更に小さなコミュニティになるとある図像に独自の意味合いを見出したりとか、より複雑に緻密に組み立てていったりとかって風により専門性が増すとそれが美術や芸術なのかな。

1018 学名ナナシ :2007年11月04日 23:26(ブログ米欄)
専門性が高まれば高まるほど、ソレ単独では、世間の為にはなりにくいものになっていきやすいよね、シナジーがないと。
美学や哲学とか認知心理学やらを突き詰め、専門性を極め、表現しきったような尖った作品は、そこらに歩いているおばちゃんにわからない、けれど、専門性を持った人がそれを見れば、大きな感動を得られるっていうテの作品が、今も昔も美術に限らずだけれど多すぎる。
僕も現代美術と言われているものをやるけれど、そういう分かっている人だけ理解できればいいよ、というような作品は、否定はしないが嫌いだ。
人に何かを伝えるときは、こちらから歩み寄らないと全く始まらないからね。

 この辺の思想だと、つまりポップ・アートってことなのかなと。
 そしてこれ、

1027 学名ナナシ :2007年11月05日 01:54(ブログ米欄)
芸術にも色々あるから、もちろん大衆向けに作家が噛み砕いて発表するものもあるし
同じ芸術家にしか理解できないような先鋭的な作品もある

自分の表現を追求して行ったらどんどん普通の人には分からなくなるのは仕方ない
美術は高等数学と同じで、今は理解されなくても表現が先に進むために身を削って研究するもの。

工業や化学の方が数学より社会の発展に貢献するし、アニメや漫画の方が美術より評価されるが
研究の一環として数学も美術も必要だと思う

 というところに前衛芸術と大衆文化、日常というものが若干見えてくるのかな。先端での研究の結果を理解しそれをより一般化/応用するなりして表現すると。図示するとこんな感じかな。

先端の研究としての芸術|噛み砕いた芸術|ポップ・アート|ポップス|日常

 ベクトルの数が少ないからずいぶん視野が狭い。「噛み砕いた芸術」と「ポップ・アート」がこういう風に並ぶのは変なのかも。ポップ・アートってジャンルの事だし。ただ、没個性を狙っていくという事はより日常的ということでこれも有りなのか??そしてポップスの定義があいまい。

 なんだか散漫としていますな。