そして思うこと。

生き方。

 僕は往々にして常に流されているはずである。例えると普段は川の流れに身を任せながらぷかぷかと浮いている状態。そして無作為の何処かにたどり着く。そこにはフロイト的なものは無い、と思う。あるいは身を任せるにしても力の入れ具合やなんかで浮き方や体勢が変わって受ける流れに影響を与えてしまうかも知れないから全く無意識の影響も無いとは言い切れない。それはさておき、たどり着くと僕はそこで何かを得たり得なかったりする。そしてどちらにしても何かを失う。ここで僕は思う。どちらにしても何かを失うなら、できれば何かを得た方が良いだろう。こうして僕はある程度の目標を持つことになる。
 再び流されると、今度は少しあたりに気を配り、そして何か得られそうなところを見つければそちらの方へ流されていくように体勢を変えたり時には泳いだりする。
 僕は昔からこのような生き方をしてきた。割合気楽で特別何かに執着しなければ自由だ。ただ、この生き方にはデメリットもある。なんといってもムラが多い。多分に運というものに左右されてしまう。バタフライエフェクトを信じるなら、それこそ僕が無意識に起こす筋肉の運動や生理現象なんかも影響するだろうし、川に浮かぶ流木一本、もっと言うなら源流で湧き出る水の一滴にも影響を受けてしまう。しかしまあそんな影響を考えていたらやりきれないし、そんなものに悩むくらいなら元々こんな生き方はしていない。
 歳を重ねるにつれ、得るものも増え、いつ身を任せいつ意識的に向かうかという選択も上達する頃、僕はとても気になるものに出会ってしまう。というより見えてしまったというほうがいいのだろうか。流された距離と得たものの量、目指すべき場所とそれに必要なもの。そして、それが足りないということ。
 僕は今泳ぎまわっている。必死ではないが、時には流れに逆らい泳ぎまわっている。

前に言われたこと。

 以前、何の話かは余り覚えていないが、彼女さんがこういった。
「皆基本というか、歴史をおろそかにしすぎる」
 多分美術史の事なのだろうが、すべてにおいてそれは当てはまるのだろう。よほど才能や運に恵まれていなければ、歴史を知らずして、それを踏襲、発展させることはできない。人の独創性というものは、その時代や環境に大きく左右され、おのずと限界というものが現れてしまうと僕は考えている。過去を疎かにし、今しか見えていなければ、未来は見えてこないと思う。限界を突き詰める事が難しくなる。歴史を軽くでも振り返り、これまでの限界点を知れば、そこから始められる。そこで積み重ねて正面から限界を超えてもいいし、別の隙間を見付けて超えていくのでもいい。

 んで、つまるところ、古賀春江を検索し、次々と現れる思想や運動を眺め、そしてまぁポップに傾倒している自分というのも頭にありつつ、ふと、更に進むにはもっと歴史を体系的に掴まなけりゃなるまいと思った。