『クリント・イーストウッド―アメリカ映画史を再生する男―』読了

・クリント・イーストウッド ―アメリカ映画史を再生する男―

(出)筑摩書房《文庫》
(著)中条省平
\780

1/2に読み始め、1/4に読了。
マカロニウエスタンから出発し、いまや押しも押されぬハリウッドの巨匠になったイーストウッド。彼がおそらく生涯をかけて再構築しようとしているハリウッド映画の歴史を、彼の作品を追うことで照らし出そうという感じの読み物。
 ということで目次。

はじめに――アメリカ映画の歴史の再生
第一章 ハリウッド崩壊とマカロニ・ウエスタン
第二章 最後のウエスタン監督
第三章 B級映画によるサバイバル
第四章 フィルム・ノワールの新たな展開
第五章 アメリカン・ドリームの行方
第六章 教育とイニシエーション
第七章 新しいアクション映画の探求
第八章 「アメリカ人の人生に第二幕はない」
補章 二十一世紀のイーストウッドは十字架の彼方に
あとがき
フィルモグラフィ
映画題名索引

目次のタイトルからしてすでにイーストウッド映画の主題が見え隠れしてそそります。そしてそれにリンクしたハリウッドの歴史――というかアメリカの社会を内包してますね。

アメリカ映画の歴史の再生

 誰が再生するかというとつまりイーストウッドですが、ではどう再生するのか。イーストウッド作品で象徴的なのが『ブロンコ・ビリー』の一場面、「何も起こらない列車強盗」。

世界の映画はリュミエール兄弟の『列車の到着』によって開幕し、アメリカの劇映画は『大列車強盗』によって最初の偉大な一歩をしるした。

-p10

 19世紀末、20世紀初頭、何が一番身近でど迫力であったかといえばやはり轟音とともにもうもうと黒い煙を吐き出す巨大な鉄の塊、列車。そしてアメリカで列車といえば、ウエスタンの定石、列車強盗。
 ハリウッド崩壊後に映画を撮り始めたイーストウッドが、崩壊したアメリカ映画の夢―もう現代では起こりえない列車強盗―を自覚した上で、あえて追いかける。黄金期に共に夢を見ることが叶わなかった後追いの悲しさと滑稽さが『ブロンコ・ビリー』には滲んでいるが、しかしそこで懐古主義的に眺めるだけではなく、イーストウッドは先に進む創造のための土台としてハリウッドの「スタジオ・システム」を踏襲し、多くの作品を撮ってゆくという。

ハリウッド崩壊とマカロニ・ウエスタン

 ハリウッド崩壊からマカロニ・ウエスタン『荒野の用心棒』の誕生にいたる経緯と、その間のイーストウッドの活動から語られる。
 孫引きですが、『荒野の用心棒』出演の際にイーストウッドが『ローハイド』からガンベルト、ブーツを拝借して現地では安物のポンチョを調達したという逸話がなかなか。(ミンティー・クリンチ『クリント・イーストウッド 強くて寡黙な男の肖像』奥村恵美訳、近代映画社)
 ここで、『荒野の用心棒』のセルジオ・レオーネ監督の革新性、暴力描写と写実主義について触れられている。アクション映画における、血と汗と泥、埃と垢について。たしかに、昔のウエスタンとかって、結構きれいな感じなんですよね。なんていうか生活感が欠けてるというか。まあ、昔じゃなくても、なぜか西部劇のコーナーに置いてあったりする『マーヴェリック』とかね。
 この第一章でイーストウッドの初出演作品『半漁人の逆襲』が紹介されていて、ちょっと観たくなったので近くのツタヤで探してみたが置いてませんでした。残念。

最後のウエスタン監督

 イーストウッドによるウエスタンの主人公には2種類ある。まずは固有名詞の無いタイプ『荒野のストレンジャー』や『ペイルライダー』。もうひとつは名前のある『許されざる者』。前者には超越的な不死性というものがあるが、後者にはない。(あともう一種類あるけど割愛。『アウトロー』がそれ)

善悪の判断を中釣りにするニヒリズム

-p68

許されざる者』にたちこめているのは、凄まじい「私怨」であり、個人の暴力を肯定する西部劇というジャンルの原罪を、血のしたたる傷口のように露にしている。その意味で、『許されざる者』はウエスタンがついに百年近くかかって到達した限界点と見なすことができる。

-p82

 イーストウッドのウエスタンには、「最後のウエスタン」という言葉がしっくり来るくらい、主人公と死が密接に関連している。そしてそれがまた、西部劇に脈々と流れてきた「暴力」というものに対するイーストウッドの思いなのだろう。

B級映画によるサバイバル

 この章では主にイーストウッドの盟友たち、撮影監督やカメラマン達について語られている。ハリウッド崩壊後の不遇の時代に主にB級映画を作製することで、撮影期間や制作費など経済的な効率性や技法に対する創意工夫などを鍛えられた監督たちとそれを受け継いだイーストウッドとの関係について。

シーゲルは撮影した瞬間に、そのショットの良し悪しを判断できる目を備えている〜中略〜頭の中ですでに編集が済んでいるから、じっさいの編集もごく簡単にできる。〜中略〜現場のどんなアクシデントにも即応できる引きだしをいっぱい持っていて、演出プランをその場で変更することを恐れない。

-p99

フィルム・ノワールの新たな展開

 「フィルム・ノワール」の意味をざっくり要約すると、「犯罪そのものの魅力に焦点をあて」た映画。では、イーストウッドにおけるノワールとは、そして新たな展開とはというと、つまり『ダーティハリー』ですな。
 『ダーティハリー』といえばニヒルな荒くれ刑事ハリー・キャラハン。そして時代はベトナム戦争後のヒッピー全盛。当然、

武力で世界に睨みをきかすアメリカ的イデオロギーの象徴

-p120

という評価もされてしまうわけです。しかしイーストウッドは「腐敗した官僚主義に対する批判」としてこの作品を提示しているという。だからこそ、あの時代にヒットしたのだろう。つまり、組織による圧倒的な武力ではなく、あくまで限界のある個人による力。乱暴であることには変わりないが、しかし「犯人がさらなる犯罪を犯すことをじかに阻止する(マイケル・ヘンリーによるインタビュー)」のである。決して私利私欲のためではない。そしてこの映画の魅力。

だが、西部開拓時代の自警団思想、犯罪の増加とカルト的猟奇化、さらにヴェトナム戦争による国家的トラウマといったアメリカ固有の時代背景だけでは、『ダーティハリー』の魅力を説明できない〜中略〜『ダーティハリー』には、映画の根源をなす活劇の力があふれているのだ。

-p123

アメリカン・ドリームの行方

 イーストウッド映画の主題のひとつとして、「マジョリティ」と「チームワーク」というのがある。『ブロンコ・ビリー』や『アウトロー』、『ガントレット』などがあげられるかなと。特に『ブロンコ・ビリー』では、サーカス一座というチームがあり、そしてその一座のテントが消失し、例の「何も起こらない大列車強盗」を計画するくだりがある。この滑稽な西部劇に対する墓標でもって、時代錯誤な夢をイーストウッドは表現している。がしかし、イーストウッドは、

そのことを重々承知しながら〜中略〜アメリカンドリームの行方をいまだに見すえている。その事実は、彼が二十世紀最後に撮った『スペースカウボーイ』にも表れている。

-p170

教育とイニシエーションという主題

 イーストウッド作品には多々先輩と後輩という図式が出てくる。ここでは『アウトロー』や『ハートブレイク・リッジ/勝利の戦場』、『サンダーボルト』、『パーフェクト・ワールド』、『ルーキー』などがあげられているが、なんといっても『センチメンタル・アドベンチャー』。老人とカントリー歌手と14歳の少年のロードムービーだが、老人は瀕死で生まれ故郷へ、カントリー歌手も瀕死でオーディションへという、つまり瀕死の状態で旅をしている。死期を予感した二人が旅の行程、そして終着によって少年に人生を教えるという物語。この中で生まれ故郷へ着いた老人はそこで失った土地を前に土を掴み、

「いずれにしても、すべては土に還る」

-p189

とつぶやく。
 イーストウッド哲学の集約、「夢と挫折、希望と諦観のない交ぜになった全的肯定」である。

新しいアクション映画の探求

 新しいものを創造する際に、人知を超えたよほどの天才でもない限りは歴史を学ばなければならない。クリントイーストウッドの映画にも、その「歴史性」が見て取れると著者は言う。ハリウッドの凋落が起こる例の50年代を出発点とするイーストウッドの作品において、それは『恐怖のメロディ』に如実に表れていると。『恐怖のメロディ』では特に、その画の撮り方や編集における手法や経済性、人物の描き方等、著者はハリウッドの映画監督たちとの比較を通してイーストウッドの正統的なハリウッド監督という姿を浮かび上がらせている。
 そしてここで重要なのが、イーストウッドのアクションにおける「持続と中断」。激しい格闘のさなか、ゆっくりと流れ落ちる血のクローズアップや、崖をクライミングする人間を上下からの極端な俯瞰と仰角で捉えそして上空からのロング・ショットなど、その緩急のつけ方がすごい。
 ちなみに、自分の中で一番好きなアクションシーンは、『ガントレット』のラスト、伝説の超鈍足アクション、「蜂の巣にされるバス」のシーン。裁判所へと向うバスと、それを囲む警官の動きがかなり緩慢であるのに対して、撃ち込まれる銃弾によってものすごい勢いでバスに穴が開いていく。これほど長時間、大した進展もないアクションシーンに惹きこまれたことは無い。

アメリカ人の人生に第二幕はない

 イーストウッドによるチャーリー・パーカーの伝記映画『バード』の冒頭に掲げられる言葉である。要約すると、自己破壊的な天才創造者たちという矛盾がテーマであり、一度頂点に登りつめた者には終幕しかなく、その後に第二幕はないということ。
 章の締めくくりにはジャン・ルノワールの映画からの引用が記してある。

「いいかい、この世には恐ろしいことがひとつある。それは、すべての人間が正しい言い分をもっているということだ」(『ゲームの規則』)

-p254

すばらしく空恐ろしい矛盾。

二十一世紀のイーストウッドは十字架の彼方に

 21世紀に入ってからのイーストウッド作品のテーマが「人殺し」であると著者は言っている。21世紀に入ってから製作されたイーストウッド作品で僕が観たものは『ミリオンダラー・ベイビー』だけであるが、確かに「人殺し」が、それも生々しく切ない人殺しが描かれていた。栄光の後、身体麻痺に陥った主人公マギーに頼まれ呼吸器をはずすあれである。前半はイーストウッドの以前からのテーマ「教育とイニシエーション」が暗闇でもがく登場人物たちを光のあるところまで這い上がらせる、そしてその後の落とし。泣けた。
 他に一昨年の『硫黄島からの手紙』『父親たちの星条旗』についても戦争という国家的な人殺しをテーマにしているとし、

ブッシュ政権下のアメリカの現在が射程に収められ〜中略〜正しい戦争などなく、無意味な「人殺し」しかないという冷静な認識は、にもかかわらず、死んだ兵士には敵味方を問わず最大限の敬意が払われるべきだという慎ましい姿勢を作っている。

-p278

といっている。