現代の「物語」のあり方。

http://wiredvision.jp/blog/hamano/200801/200801151110.htmlを読んで。

ソーシャルメディアは、一枚岩のようなものとして「総表現社会」(梅田望夫)の到来をもたらし、社会全体に豊かな「知識」や幅広い「リアル」をもたらすのではなく、むしろある「限定された」コミュニティごとに、ばらばらに「集合知」や「リアル」を生み出す、というわけです。ちなみに、筆者が以前「初音ミク」現象を論じる際に用いた「限定客観性」という言葉も、まさにこうした事態を別様に表現したものでした。

「限定されたリアル」という図式を前提にせざるをえなくなっている

個々の物語コンテンツは、「大きな物語」(その社会で広く共有される共通の価値観や目的やイデオロギー)へと至る回路を提供しなくなる。その代わりに、人々は、自分たちの「欲求」に適した「小さな物語」を、個別にばらばらに消費するようになっていく。もはや「物語」というメディアは、社会全体で共有可能な「リアル」を表現する《器》としてではなく、ただ消費者の「感情」や「感覚」――それはオタク系の「萌え」であろうと、ケータイ小説系の「感動(涙腺)」でもいいのですが――を的確に《刺激》するものとして、消費されるようになる

つまり、記号の集合であるところの「物語」が一つの記号として機能しているということ?時間軸を加味した三次元的な絵画という感じだろうか。って、それってつまり映画か。いや、より音楽的になったということか?なんかずれてるかも。むしろ「感動」を《刺激》するものしか含まれていないし、読者側もそれにしか反応できないようになっているのでは?あるいは社会的な価値観やイデオロギーを含んではいるものの、受け手がそれを受容する器官を持っていないとか。

つまり、コンテンツは、ある限定されたコミュニケーションの「繋がりの社会性」(北田暁大)の中に埋め込まれており、そこから切り離しては自立しえなくなっている。

「絵の具」であるところの言葉というメディアが、「言文一致体」の登場によって、不純物を含まない「透明」(柄谷行人)なものとして受容されていたことを意味している。だからこそ、そこで書かれている内容は、誰にとっても共感しうるような、「普遍的なリアル」を宿すと考えられていた。しかし、ポストモダンの時代においては、そうした言葉の「透明性」は失われており、日常的な世界を、日常的な言葉で写生したとしても――まさに「ケータイ小説」はそのようなものとして書かれていますが、むしろそれゆえにこそ――、そこに誰もが「リアル」を感じ取ることはできなくなっている。

私小説であることによる、作中の「私」や「出来事」に対する、読み手の置き換えが限定的であるということだろうか。

次回があるらしいのでまとめて読んでから。