ベンヤミン『ボードレール』メモ

 今現在、『フランツ・カフカ』を終え、『複製技術の時代における芸術作品』を読み途中。

フランツ・カフカ

ポチョムキン
・一枚のこどもの写真
・せむしのこびと
サンチョ・パンサ

『複製技術の時代における芸術作品』

キットラーの『グラモフォン』でも言及されてたアレだ。写真の与える芸術の価値への影響と言い換えられそうな感じなのかな。無階級社会において求められる平等が芸術の「オウラ」を喪失させたと。大衆は芸術の一回性、耐久性を克服し、複製の一時性、反復性を求めると。
どうやら、映画に関する言及もある。
 芸術作品の礼拝的価値と展示的価値に関する考察は面白い。宗教と権力の関係もあるだろうが、一部の権力者にのみ許された礼拝的価値を持った芸術品との対面を複製技術の進歩とともに無階級社会では平等に市民が求める。故に芸術作品はその一回性を捨て、複製による一時性、反復性を持つようになる。するとそこには礼拝的価値よりも展示的価値が多くを占めるようになってくる。そして魔術的、宗教的なところで保たれていた礼拝的価値は場所を移し、ごく個人的な――例えばピンナップのような――ところへと現れる。

 昨今携帯小説界隈で出てきた、

個々の物語コンテンツは、「大きな物語」(その社会で広く共有される共通の価値観や目的やイデオロギー)へと至る回路を提供しなくなる。その代わりに、人々は、自分たちの「欲求」に適した「小さな物語」を、個別にばらばらに消費するようになっていく。もはや「物語」というメディアは、社会全体で共有可能な「リアル」を表現する《器》としてではなく、ただ消費者の「感情」や「感覚」――それはオタク系の「萌え」であろうと、ケータイ小説系の「感動(涙腺)」でもいいのですが――を的確に《刺激》するものとして、消費されるようになる。

というところにつながるのかな。