『絵の言葉』読了

絵の言葉

(出)講談社〈学術文庫〉
(著)小松 左京, 高階 秀爾

 ついに読了。読み終わるのがもったいないくらい面白い。いつまでもこの二人の会話を聴いていたい感じ。図像学の話から比較文明、文化人類学、生物学的な話まで飛び出すのはやはり小松左京の引っ張りによるものか、あるいは両氏ともの博識ゆえか。なんだか夢のような対談で、しかもあとがきを見るとどうやら徹夜の対談+後日につめてからの対談という、長時間の濃密な知の交歓会。
 30年も昔の対談なので、タイトルの絵の言葉、言い換えれば絵の文法とか、規則性、普遍性の辺りの図像学がまだまだ未熟な頃の話らしいが、大筋は捉えていてよく理解できる。二人の語りと内容が百花繚乱飛び出すので飽きることなく面白い。西洋的な絵画の観かた、東洋的というか日本的な観かたの差と言うのが明確に示されている。地域や気候による宗教観、自然を美しいと感ずるか美しい自然を作り出すか、偶像と禁偶像、写実と抽象、論理と直感などなど、面白い比較。
 民族的な下敷きの上に成り立つアレゴリーの話なども、今まで自分の中で漠然としたイメージであったものがこの二人の言葉でようやく構築されたとような気がする。
 日本人は西洋絵画を視覚的に、造形的な美しさを観ているというところはポップスの世界でもそうなのではないかなと感じる。Gt.のA氏も言っていたが、洋楽を聴く場合、歌詞の言語が母国語でないため、曲全体の雰囲気として聴いていると思う。作者の思想や意見がダイレクトには伝わらず、こちら側である程度の自由な解釈をした上で感想が持てる。間々あるのが、歌詞カードの対訳を見ると今まで感じて掴んでいた曲の雰囲気とまるで反対の意味が込められているという感じの事。ある絵画を観て、そこに込められている宗教的な意味を理解せずとも、絵の美しさで楽しめるのと同じ様なもので、しかも文化的、宗教的な土壌が異なっているから、生物の根源的本能的な部分での感情から、自身の文化的なフィルターを経て大いに誤解した上でアレゴリーを読み取っている場合がある。
 ポップスにおいて、そういう誤解をある程度作者が意識して、受け手の許容範囲を広げさせるというのは重要なことだと思う。でも今の日本のポップスにおいてはどうにもただ自分の表現力が足りないだけなのに、その欠落をリスナーに押し付けるという感じを受ける。あるいは全く普遍性の無い個人的なアレゴリーでもってそれを表現しようとしている場合もある。僕も気をつけなくちゃいけないことだが、作品がどれだけ共感を受け支持されるかは、ひとえにこの抽象化された言葉の普遍性と特殊性によるのだと言うことを忘れないように。数ある個を総合的に捉え、それを抽象化し、肉づけをするのが創作であると僕は思う。その総合的に捉える作業と、抽象化する作業とに個性というものが存在し、肉付けは時代がする物なのかもしれない。あるいはその逆か。

「絵は言葉である」

・(絵は)具体性を持つことでトータルな認識が可能になる

-p16
・(18世紀後半〜19世紀にかけて成立した美術史)それ以前の美術というのは、いまの言葉で言えば全部、広い意味でのイラストレイションに入ると思うのです。ほとんどがある種のコミュニケイションの手段であって、それを純粋に造形的に眺めるということは、むしろ非常に例外的なことであった。ところが美術史という学問が出てきた時期が、まさにそれが逆転したときだったものですから、そういう逆転した考え方で過去をも律してしまったのですね。
-p18
・もちろん花の美しさを描くけれども、同時にそこにシンボリックな意味をこめている。
-p19
・コマ割りで時間経過を表現するという、いわゆるカットが出てきたのは、映画の出現以後かもしれませんね。そう考えると、別の分野での技術革新が、昔からあったものに影響を与えるとか、その逆の影響とか、そういう相互影響史というものが、映画以前にも考えられるかもしれませんな。
-p25
・たとえば暴力場面はテレビでは具合が悪くても文章ならかなり書けるというような違い
-p26
・しかし、絵はむしろインターナショナルではないのですよね。しかも時代によっても違っている。中世語と現代語が違うように、絵も時代によって文法や語彙が変わっている。
-p69