地下室の手記読了

地下室の手記

(出)新潮社《文庫》
(著)ドストエフスキー (訳)江川卓
電車本。11月中旬〜12/7。
ISBN:4102010092

 仕事帰りの電車の中で「ツァラトストラかく語りき」に飽きたときに読み始める。もったりとした1章を過ぎ、2章からはぐいぐい引き込まれニーチェを放ってこっちを読んでしまった。

・位置づけ

 訳者解説によるとこの作品はドストエフスキーの転換期に当たるらしい。ロシアの思想家シェストフがその著『悲劇の哲学』にて発表しているらしい。

シェストフは〜中略〜ドストエフスキーを見舞った「最もはげしい転機が突然現れている」と指摘し、この作品を境に、ドストエフスキーは処女作『貧しき人びと』以来持ちつづけてきた人道主義、さらに広くは理性や人間への信頼を突如として喪失し、永遠に希望の消え去ったところで、しかも生きていかねばならぬ〈悲劇〉の領域に足を踏み入れたのだと断定した。

-p196

 これ以前の作品を僕は読んだことがないので比べようもないのだが、しかし、以後の『カラマーゾフ』『罪と罰』そして本書『地下室の手記』を読む限りでは、先のシェストフの言に手放しで賛同はしかねる。確かに僕の読んだ作品、「ドストエフスキーといえば」というような作品ばかりだが、それらには常に絶望の淵に臨む人間たちとその悲劇が描かれている。がしかし、彼らの希望が永遠に消え去ったわけではないと思う。ラスコーリニコフには常にソーニャという希望の光があり、ドミートリィ、イワンにとってはアリョーシャが居り、アリョーシャには信仰がある。希望は常にそこにあったのだと僕は思う。
 では何だというところで、訳者は的確な事を書いている。

 つまり希望に照らされながらも、臆病ゆえに全面的に信頼する事ができず絶望の淵から底を眺め、観察し、浸り、僕なりに考えると、それによって人の中に極度に自己憐憫が強調されていき、そしてそこに共存する自己顕示が苦しみを表出させるという、フロイトで言うヒステリーの症状を起こしているのではないかと。本作の主人公が語るように、

と、彼は自己分析によって苦痛と共にそこに快楽を認めている。苦痛を全面的に押し出し症状を訴えてはいるが、同時に快楽の存在も認めているところに、主人公はヒステリー気味ではあるが、重度ではないとわかる。あるいはこれは自覚的な倒錯者なのかも。

共感

 この小説を読んでいる間中、やはりというべきか、大いに共感した。なぜ、大昔に書かれた、しかも海外の小説にこれほどまで共感したのだろうか。ドストエフスキーは前書きにこう書いている。

 当時の人々の抽象的な人物像であるとともに、しかし具象として表した人物を描いていて、ようするに、一個の人間における他との共通項を肥大化させたものであるのかと。つまりは、誰にでも多かれ少なかれこういう部分はあるというもの。しかし、自己を見つめ返すにはうってつけの鏡なんじゃないかと思う。