興味多彩と

今日見たわけではないが、
現代将棋が表現する思想 - My Life Between Silicon Valley and Japan
を読んで。

コモディティ

創造性以外のものは簡単に手に入る時代だとも言えるでしょう。

これは、産業の世界で言う「コモディティ化」の議論そのものである。羽生のいまのところの結論は、厳しいながら、権利のない世界のほうが進歩が進む、だから(進歩を最優先事項とするなら)情報の共有は避けられない、そういう新しい世界では、一見モノマネをして安直に生きるほうが正しいかのようにも見えるのだが、無駄なようでも創造性を生もうとする営みを続ける以外、長期的には生き残るすべはない、ということのようである。

 しかし、模倣の先に創造があるから、模倣する対象を選別する眼を鍛えないと時代の要求する創造は行えない。ただ、それは場を凌ぐ行為としての模倣ではなく、いわゆる慣習ミームとなった模倣?基礎レベルでの模倣というのか?それを経て表現活動の瞬間に創造を行え得るのか。
 同じ情報を得たとしても異なるアプローチをするのが人間なわけで、そこに個性というものが発現するわけだが、その異なるアプローチをするためのベースとなる回路を形成するのもそれまでの情報収集過程なわけだ。

どれを取捨選択するのか。

 創造を行う為の模倣あるいは収集する情報には必要十分条件というものがあるのだろうか。自然科学の研究者を例にしてみると、
必要条件:
・任意時代のパラダイムにおける自然科学の基礎知識
・自身の専門分野の基礎知識
・専門分野の先端研究に関する知識
十分条件
・独自性を持った研究
という感じだろうか。あるね。必要条件を満たしていれば、一応研究者として何とか食い扶持くらいは見つかると思う。というか基本的に科学者の仕事は先端研究の周縁を埋めて検証する事だからね。