うんこについて思うこと。

そもそもの始まりは、僕の腸の弱さにあるのです。

僕は幼少の頃からお腹のゆるい子だったので、わかる人にはわかるようなさまざまな心的、肉体的体験をしてきました。
たとえば、授業中にもじもじしてみたり、道端で立ち止まって試練に耐えたり、電車の中で青い顔をしながら脂汗をかいてみたり。それはもう僕にしてみたら生活の一部なのです。

そんな日常の僕ですから、こんな思いがよぎります。

「この憎むべきう○んことはいったい何なんだ?」

お腹のゆるい人にとっては、まさしく切っても切れない間柄であり、実にウォシュレット無しではやっていけないような対象たる、変幻自在の主に茶色いあいつ。

さて、さらに僕は嫉妬深く執念深いというあわせ技を使える人間でもあるので、一度憎めば、それこそ四六時中、昼夜なく三食と共に憎み続けるわけです。
寝てもさめてもウンコ。三食共にウンコ。もううんざりですよ。
仕舞いには出口の近くにイボを生成して出にくくなるように体が変化。
硬いの出したときに切れるんですよね。

さて、まあ、以上の話は実はたいして本筋とは関係ないので、読んでいただかなくてもよかったんですが、せっかく書いたので誰か読んでください。


話は変わって、20世紀初頭。そこにはあのマルセル・デュシャンや、ピエロ・マンゾーニがいました。彼らの名から想起されるのは、ダダ、破壊、そして生態学的な排泄という行為に関した作品。
彼らの『泉』や『芸術家の糞』、あるいは現代においてはカバコフの『ゴミ男』や『トイレ』。
これらは行き詰まり、終焉を見せた『美』というものの理論や運動に対して、実に自然界に存在する大原則たる、サイクルの連結にいたるための破壊を行うために生まれてきたものです。本当かどうかは知りませんが。
ただ、僕は全体として芸術として捉えられるような代物ではありませんので、これもまたただの余談です。

因みに、どこかの学者さんがこんなことを言っています。
「あらゆる芸術は感情の吐露ではなく、感情についての論理的構成である」
ぴたり同じ言葉だったかはうる覚えなのであしからず。
多分、テクストなしにただうんこをさらすというのは、生の感情の吐露という段階なので、そこからそれを料理しなけりゃいけないわけですが、僕みたいな不衛生チックな人間が料理人であるはずがないので、僕がやるとつまりただのキッチュなわけです。


んで、便意を催してきてて面倒なので省きますが、つまりその、KYに対するアンチテーゼだったのかはしりませんが、とりあえずまあ、お腹が痛いときは無理せずトイレに行くか正露丸やら赤玉なんかを飲みましょうという方向でいいですかね?