永劫回帰とかシシュポスとか。

唐突にものすごく漠然とニーチェゲーテかだったか、シシュポスの話がなんかというような単語だけ思い浮かんだので検索。
ニーチェの「永劫回帰」だった。

「一回性の連続」という概念

ということで、シシュポスに繋がる。

蓄積している知識や歴史が、近代化という不可逆な方向性を持っているのは社会科学的な事実であり、永劫回帰の思想は人類史的なスタンスで見たら誤りである。歴史は繰り返しているようで、弁証法的に発展しているのである。

というように批判されているようである。
科学的な検証においても、また批判要素がたくさんある様子。確かに上にある通り「繰り返しているようで弁証法的に発展している」という感じはする。
ただ時間が発生した時から収束するまでという事であるなら誰にも実証できないし、それはわからない。あるいは宇宙の初めから終わりまでは延々繰り返されているのかもしれない。そういうことではないだろうけど。
それは置いておいて、ミクロな日々の様子に目を移すと大抵同じことの繰り返しだし「できることからコツコツと」である。これを弁証法的に発展していると日々実感できるなら良いが、しかし大抵そうではなくて、実際僕は今まで反復練習的なことをかなり疎かにしてきたのでその結果ごらんの有様だよ。主観的にはシシュポスの受けた罰である。
しかし僕は隣の芝は青いを地でいく人間なので、隣のシシュポスがシシュポスに見えずというかシシュポス的行動が目に入るわけもなく、かつ最初から完全無欠のヒーローか中二的突然覚醒し見出される才能というような状態しかみえていなかったわけで、岩をほっぽりだした。つまり遊び耽っていた。
共に遊んでいた人間がどういうことを密かに思索し将来のビジョンを描いていたかとか、僕の気づかないところで日々シシュポス的なことをしていたとかはまるで知らない。気づくといきなり知らない無限の商店街に放り出され、皆は目的地へまっすぐ進んでいるのに自分は遠くに霞む巨大な建物を目に付いたという理由だけでそこへの道筋や手順、距離など微塵も理解していないなか、円環状の大通りをくるくると回り続けていたり、あるいは気づかなければ事実上無限に続く巨大な建物への一本道をとぼとぼと歩いているだけである。しかも途中のオモチャ屋やらに寄り道しながら。
夢の中で焦ろう。

という感じを念頭に。