『中国行きのスロウ・ボート』

2007年9月下旬購入。ブックオフ。105円。
1983年に出版された村上春樹の始めての短編集、その1986年に出た文庫本。
昭和六十二年十一月二十日三版。
2007年9月23日読了。

何もない曇りの日曜日の午後にだらだらと読む。

中国行きのスロウ・ボート

 最初に出会った中国人のことを思い出し、記憶のあいまいさ、鮮明さについて考え、人生の向うべき死について思いを巡らすと、中国人を思い出している。

既に三十歳を越えた一人の男としてもう一度バスケットボールのゴール・ポストに全速力でぶつかり、もう一度グローヴを枕に葡萄棚の下で目を覚ましたとしたら、僕は今度は何と叫ぶのだろう? わからない。いや、あるいはこう叫ぶかもしれない。おい、ここは僕の場所でもない、と。

―p39

 異邦人との付き合いから、自らも、あるいはすべての人間すらも現世における異邦人であるみたいなことだろうか?

・貧乏な叔母さんの話

 概念的な記号としての「貧乏な叔母さん」が「僕」の背後に現れ、人々に様々な「叔母さん」を見せる。

「つまりね、貧乏な叔母さんには貧乏な叔母さん的な少女時代があり、青春があったかもしれない。あるいはなかったかもしれない。でも、それはどちらでもいいことなのよ。世の中はきっと何百万っていう数の理由であふれいるのよ。生きるための何百万もの理由、死ぬための何百万もの理由、そんなものひと山いくらで手に入るわ。でも、あなたの求めているのはそんなものじゃないんでしょ?」
「彼女は存在するのよ、それだけ」彼女はそう言った。「あとはあなたがそれをうけいれるかどうかってこと」

―p64

砂漠のまんなかに立った一本の意味のない標識のように僕はひとりぼっちだった。

―p71

・ニューヨーク炭鉱の悲劇

・嵐の日に動物園に出かける「友人」と、周囲の友人たちの葬式が重なる「僕」。「友人」の仕立てたスーツ。
・とあるパーティーで「僕に似た男」を殺したと話す初対面の「女性」と、ほとんど知り合いのいない「僕」の会話。
・ニューヨーク炭鉱崩落で生き埋めにされた人々。

「彼は我々が五分もスイッチを切っていたことに気づきもしないんだぜ」
「スイッチを切った瞬間、どちらかの存在がゼロになったんだよ。俺たちか、それとも奴か、どちらかがさ」
「違う考え方もあるぜ」と僕は言った。
「そりゃそうさ、違う考え方なんて百万もある。インドには椰子の木がはえてるし、ベネズエラじゃ政治犯をヘリコプターからばらまいている」
「でも世の中には葬式の出ない死に方もある。匂いのない死もある」

―p90

「あなたって私の知っている方にそっくりなんです」
 学生時代によく使った口説く文句の出だしにそっくりだったが、彼女はそんなありふれた手を使うようなタイプには見えなかった。
「そんなに似た人がいるなら、一度会ってみたいな」
「少し怖いような気もするけど」
 彼女の微笑が一瞬深くなり、そしてまたもとに戻った。「でも無理ね」と彼女は言った。「彼は五年前に死んじゃったから。ちょうど今のあなたと同じくらいの歳だったわ」
「私が殺したの」
 ピアノ・トリオが二度目のステージを終えたらしく、まわりでばらばらと気のない拍手が起こった。

―p93

「みんな、なるべく息をするんじゃない。残りの空気が少ないんだ」
 抗夫たちは闇の中で身を寄せあい、耳を澄ませ、ただひとつの音が聞こえてくるのを待っていた。つるはしの音、生命の音だ。

―p96

「まるで故障したエレベーターにたまたま二人で乗り合わせたって感じなんだよ」

―p78

・カンガルー通信

 デパートの商品管理課に勤めている「僕」の下に来た一通のクレームレターに対する返信。大いなる不完全さ。個体。偏在。

大いなる不完全さというのは、まあ簡単に言っちゃえば誰かが誰かを結果的に許すということかもしれません。僕がカンガルーを許し、カンガルーがあなたを許し、あなたが僕を許す――例えばこういうことです。

―p106

我々は対等なのです。それだけは覚えておいて下さい。

―p108

僕は同時にふたつの場所にいたいのです。これが僕の唯一の希望です。それ以外には何も望みません。
 しかし僕が僕自身であるという個体性が、そんな僕の希望を邪魔しているのです。

―p120

・午後の最後の芝生

 彼女と別れ、一緒に行くはずだった旅行の予定もなくなり、お金の使い道がなくなった「僕」はアルバイトである芝刈りをやめることにする。最後の芝刈り先で出会った中年の女との会話。別れた彼女の残した手紙の言葉。

「あなたは私にいろんなものを求めているのでしょうけど」と恋人は書いていた。「私は自分が何かを求められているとはどうしても思えないのです」
 僕の求めているのはきちんと芝を刈ることだけなんだ、と僕は思う。最初に機械で芝を刈り、くまででかきあつめ、それから芝刈りばさみできちんと揃える――それだけなんだ。僕にはそれができる。そうするべきだと感じでいるからだ。

―p155

スペイン系の国によくある昼寝の時間みたいな感じだった。

―p136

・土の中の彼女の小さな犬

窓の外では雨が降っていた。雨はもう三日も降り続いていた。単調で無個性で我慢強い雨だった。

―p159

スーツ・ケースは主人を待っている年老いた三匹の犬みたいに見えた。

―p173

「ベルが何度も何度も何度も何度も――二十回くらい鳴ったの。二十回もベルが鳴ったのよ。まるで誰かが長い廊下をゆっくりと歩いているみたいな電話のベルだったわ。どこかの角から現れて、別の角に消えていくみたいなね」

―p200
「ただ匂いだけが、いつまでも残ったわ」
―p201
犬の墓から通帳を取り出した時の事を思い返す女性のセリフ

僕は何百キロか先の電話のベルを何度も何度も何度も鳴らしつづけた。彼女がその電話の前にいることを、僕は今はっきりと感じることができた。彼女は確かにそこにいるのだ。

―p204

シドニーのグリーン・ストリート

 僕はまわりの人々の固定観念を打ちこわすためにも十二月がら二月までを冬と呼び、六月から八月までを夏と呼んでいる。だから冬は暑く、夏は寒い。

―p209
 僕がシドニーのグリーン・ストリートに事務所を構えているのは、ここにいる限り知り合いなんて一人も訪ねてこないからだ。〜〜電話もない。手紙は破り捨てる。本当に静かだ。
―p212
「私立探偵事務所」といっても、お客なんか殆んど来やしない。シドニーの〜〜そういったつまらない依頼を僕はぜんぶ断ってしまう。だって〜〜僕の求めているのはもっとドラマティックな事件なのだ。
―p216〜217, 「僕」

「羊博士には羊男の生き方が気に入らないのです。だからいやがらせに耳をちぎっちゃうんです。そして喜んでいるんです」

―p223, 羊男
「願望憎悪よ」「あなたは本当は自分も羊男になりたいのよ。でもそれを認めたくないから羊男を逆に憎むようになったのね」
―p233,234, 「ちゃーりー」