『レキシントンの幽霊』

07年9月の初〜中旬辺りに購入。多分100円。07/10/15に仕事帰りの電車内で読了。全編とも「孤独」がテーマか。

収録短編。

レキシントンの幽霊
・緑色の獣
・沈黙
・氷男
トニー滝谷
・七番目の男
・めくらやなぎと、眠る女

レキシントンの幽霊

なんとも不思議な話だった。なぜパーティーを催す幽霊を見ようとはしなかったのか。犬はどこへ行っていたのか。ケイシーは幽霊の存在を知っていたのか。あるいは夢だったのか。しかし問題はそこではなく、「なぜ、幽霊はパーティーを催したのか?」だと思う。
一番近しい者の死によって起こる環境の変化に対する人の反応は様々ではあるが、期間こそ異なれど共通のある心理の過程を経るとは思う。つまり、欠落とか喪失というようなもの。人によってはそれがその後の人生に長いこと付きまとい、常に現実感を喪失していると感じるという症状を起こすかもしれない。そして欠落による空虚によって孤独が増大していくのかもしれない。あるいは欠落を埋める手段は容易に存在していると感じてそれを欲望してはいるが、無意識の死んだ者に対する罪悪感によって理性による抑圧が働き云々があるのか。
強烈なというか、ひたすらに無力感を味わう深い喪失感と言うような感じによって、ケイシーの父は妻の死後寝込み、そしてケイシー自身も父の死で同じように寝込んだのだろう。そしてそのまま、現実には日常の生活をこなしてはいるが、彼らの中では夢の中で生活が進行していく。そこには自分と過去以外には何も無く孤独であるのだろうと思う。あるいは過去が孤独を、欠落を埋める手段だと感じているのかも知れない。そして無意識に感じるその享楽性を甘受し続けるための意識の欺瞞。近親者の死による孤独。……この考えが僕の自己憐憫なのかもね。
今後考えること:
・なぜ幽霊はパーティーを催したのか(『僕』の夢の中で)。
・最後の方の「遠いが故に不思議だとは思えない」という感じの『僕』の言葉について。

・緑色の獣

夫が仕事に行っている間、家事を片付け暇を作った『私』が、子供の頃に植えて共に育った庭の木(この持ち家は『私』の実家なのだろうか?夫は婿養子?それとも植え替えたのだろうか?←木を?!)を眺めていると、その根元から緑色の獣が現れる。するりとドアの隙間から家に入ってきた獣。獣の来た理由を考えていた『私』は、声に出してもいないのに獣がその疑問に答える声を聞く。獣は地底深くから『私』にプロポーズするためにやってきた事、そして相手の考えが読めること。それに対して『私』は獣を拒絶する。頭の中で拒絶すればするほど獣は苦しみ、その姿は薄れ、最後には消える。
主婦の孤独に由来する欲望を自ら抑圧している時の遊びだろうか。

・沈黙

坂本さんの半生。対極にある二つの孤独ということだろうか。青木も能動的先導者という立場、同程度の能力思考を持った者への猜疑心、集団への見下し等故に絶対の信頼を置ける友が持てないのではないかと感じる。
考える頭が無く追従する集団に対する危惧は、古くから議論されているところであると思うが、昨今もWEB2.0的な流れで良く目にする。2chであたりに対するものだったり、問題を抱えたマスコミとそこからの一元的な情報を鵜呑みにする人々に対するものであったり。
主人公の坂本さんの拠り所の一つはボクシング・ジムであったわけだが、現代においてはそれがブログ、掲示板であったりと、選択肢が広がっているのかなとも感じる反面、安易な逃げ道が用意されているのかなとも思う。結局本人がどのような経験を持っていて、資質がどうで、環境とタイミングが云々なのだろうか。
 その状況に自分を置いてみると、マイノリティを抱えつつもマジョリティに擦り寄り空気のように擬態する自分の姿が見える気がする。そして孤独を感じることなく、静かに考え方も多数に染まっていく。僕の今までの人生において、影で何を言われてきたのかなんていうのはわかりっこないわけだが、表立って嫌われた記憶は無い。まあ、大学時代に熱を上げた女の子にしつこいと思われた位か。そういうわけだから、嫌われたって構わないとか人がどう思おうととかっていう思考は僕には無い。まあ高校生までとかではクラスで一目置かれる人間に好かれていたから何事も起こらなかったんだろうと思うけど。

・氷男

孤独の転換。一般社会(日本)で受け入れられず孤独であった人が、ある特定の場所(南極)では受け入れられ安定を手にいれる。『私』が南極行きを希望したとき、氷男はその行く末がわかっていたのだろう。そこでは『私』と氷男の立場が逆転する。そしてただ逆転したと言うわけでもない。氷男は元々孤独であり、『私』と結婚することで幸せを得た。(孤独ではなくなったかどうかはいまいちわからないが、「目的」みたいなものは得たと思う)。『私』は氷男と結婚することにより世間と断絶されてしまったわけだが、氷男の存在によって孤独は免れ幸せを得る。二人にとってこの状態が恐らくもっとも平衡状態に近いものだったと思う。
 しかし彼女は退屈に襲われる。そして、やはりなんだかんだで社会を形成している人々と同族であるという余裕から、南極という氷男にとってとても有利な条件を提示してしまったのではないか。
氷男は一度南極行きに難色を示す。彼女が孤独に陥るが、本当に良いのかと。そして、直前で『私』は不安になり南極行きを取りやめたいと言う。しかし氷男はそれを断る。恐らくここではもう既に南極という受け入れ先に対する欲望が勝ってしまっていたのではないかと思う。行き先が決定してから実際に出発する期日になるまでに、孤独から開放される期待が無意識であるかはわからないが、しかし確実に膨らんでいたと思う。そして再び孤独になると言うことに対する恐怖が現れてしまったのかなと。

トニー滝谷

まず、父親の演奏を聴いたトニー滝谷が感じた違和感はなんだったのか。

しかししばらく演奏を聴いているうちに、まるで細いパイプに静かにしかし確実にごみが溜まっていくみたいに、その音楽の中の何かが彼を息苦しくさせ、居心地悪くさせた。
〜中略〜
ほんの僅かな違いかもしれない。でもそれは大事なことなのだ。

-p129

例の女性と交流を始める事により孤独から開放され、これまでの孤独を檻に例えている。相手に付き合っている男がいるとわかり、これまで慣れ親しんだ檻に再び戻ることがとてつもない恐怖となる。まあ、めでたく結婚するわけだが、こうして孤独の檻から出た後のトニー滝谷が父親の演奏を聴くことになるわけだ。
父親の演奏に何か違いがあったのか、または聴くトニー滝谷の受け止め方が変わったのか。恐らく後者だろう。その理由を僕はこう考える。
父親もまた孤独な人間で、一時妻を貰ったが、トニー滝谷を出産後に亡くなる。妻の死後はおそらく外でちまちまと遊んでいたであろうが、しかし孤独の檻から出ることは無かった。もしかしたら妻がいた時にも檻からは出なかったのではないだろうか。あるいは出かかっていたのかもしれないし出ていたのかもしれない。が、どちらにせよ、父親は何のためらいも無く以降も檻の中で生活していた。
 一方、幼い頃父親の演奏を聴いたトニー滝谷もその頃は《外》を知らず檻の中で生活していた。しかし、彼が結婚し檻の外から父親の演奏を聴くと、それは何処か違ったものに聴こえてしまった。変わらずに檻の中で演奏し続ける父親に恐らく疑問をもった、あるいはそしていらだったのではないかと思う。もしかしたらこの時点でトニー滝谷は父親との交流を望んでいたのかもしれないのではないのかとも思う。
次。なぜ服を欲しがったのか。後ほど考える。

・七番目の男

幼い頃のトラウマから開放される話。
「七番目の男」は小学生の頃親友だった少年の話を始める。その少年は内気(だか発育不全?あるいは病弱?だったかは忘れた)だが、本物の上手さのある絵を描いた。ある日彼らの住む町に大型の台風が来る。大荒れの天気がしばらく続くと、不意に台風の目に入り静寂が訪れる。その不思議な時間に「七番目の男」は少年と共に浜へ出掛け散策をする。浜辺で見つけたとある物(これも忘れた)を熱心に見つめる少年。そのとき不意に「七番目の男」は不穏な空気を感じて堤防の方へ退避し始める。当然少年に声を掛けて。だがその声は届かなかったのか、少年は動かない。堤防までたどり着いたとき、見たことも無い大きな波が現れ、少年を飲み込んでしまう。すんでのところで助かった「七番目の男」は、しかし次に目の前に現れた大波の中に少年の姿を見る。
以降、「七番目の男」はあるときまでその少年に対する罪悪感に苛まれ、悪夢を見、海には近づけなくなる。当事者にしか感じられない罪悪感が孤独を産むのだろうか。妻も子供もいるが、でも真にその感情を理解することも、罪を共に背負いう事もできない。負わせるなんてもってのほかだし。
あるとき父が死に、遺産整理などなどと共に「七番目の男」の元に少年の絵が届くと事態が動く。少年の目を通して見た地元の風景は、波に飲まれて男を恨むという負の感情を少年は抱かなかったのではないかと思わせるほど澄んで優しいものだった。そして「七番目の男」は罪の意識と孤独から開放される。ただ、費やされた時間はあまりにも長く、そして生まれ変わった人生の残りは少ない。しかし、「七番目の男」は感謝していた。

「私の場合、それは波だったということです。みなさんの場合それが何になるのか、私にはもちろんわかりません。でも私にとってはそれはたまたま波だったのです」

-p150

「〜中略〜しかしなによりも怖いのは、その恐怖に背中を向け、目を閉じてしまうことです。そうすることによって、私たちは自分の中にあるいちばん重要なものを、何かに譲り渡してしまうことになります。私の場合には――それは波でした」

-p177

・めくらやなぎと、眠る女

「孤独」というテーマに沿って、

  • 実家に帰ってきた主人公
  • 右耳の不自由ないとこ
  • 入院中の少女

の三人について。
まずは主人公といとこについて。幼い頃から親戚の集まりの中ではセットとして扱われてきた二人だが、久しくあっていないことによる隔たりというものが語られる。

その時間の空白は、僕らのあいだに、うまく通り抜けることのできない半透明な仕切りのようなものを作り上げていた。

-p184

病院に向う途中での、孤独というほどのことでもないが、二人の多少の気まずさが漂う。そしてバスの中で主人公は、その経年による環境の変化に戸惑う。
 そして、なぜ故郷との隔たりを感じるのかというところで、いとこの「高校の頃の友達とは今でも会っているのか」という質問に対しての答え、

「ずっと遠くに離れていたからね」。真実ではなかったが〜

-p186

しかしある意味でそれは真実であると思う。「遠くに離れていた」のは理由ではなく手段であるのではないか。
ではその理由は?

ずっと昔、同じ光景をどこかで見たことがあるような気がした。

-p194

その答えが回想の中、入院中の少女の言葉で徐々に語られる。

「めくらやなぎの外見は小さいけれど、根はすごく深いのよ〜〜中略〜〜ある年齢に達すると、めくらやなぎは上に伸びるのをやめて、下へ下へと伸びていくの。まるで暗闇を養分とするみたいにね」

-p201

そして、核心、

僕らの不注意と傲慢さによって損なわれ、かたちを崩し、失われていった。僕らはそのことについて何かを感じなくてはならなかったはずだ。〜略〜でもその午後〜〜つまらない冗談を言いあってそのまま別れただけだった。そしてあの丘を、めくらやなぎのはびこるままおきざりにしてしまったのだ。

-p209

これが何を意味するのかはまだ良くわからない。少女の孤独を感じ取れなかった自分たちについての後悔なのか、このことが原因の何かで友達を失ってしまったことなのか、それともその両方や他の何か、特に思春期における体験の中で見過ごされ損なわれてしまった何かが故郷に対する空白を生み、孤独を感じ、その何かに対する後悔を言っているのか。

「〜耳のことで誰かに同情されるたびに、どうしてかそれを思い出すんだよ。『インディアンを見たというのは、つまりインディアンはそこにいないということです』ってさ」

-p206

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

レキシントンの幽霊 (文春文庫)