『1Q84』読了。

ネタバレアリマス。


冒頭からというか、この小説が始まった時点で青豆と天吾の二人は1984年から「1Q84年」へと入り込んだのだろう。何せこの小説のタイトルが『1Q84』なのだから。しかしその中で天吾はふかえりと共に物語『空気さなぎ』を小説の形にする。その物語はふかえりの、そして「さきがけ」の話だ。深田親子、目の見えないヤギの死によって現れた「リトル・ピープル」、空気さなぎ、多義的な交わり、レシヴァとパシヴァ、マザとドウタ、二つの月。そして物語は主人公の少女(ふかえり)がリトル・ピープルの側へと通じる扉を開けるところで終わる。これが『空気さなぎ』におけるふかえりの物語の終わりであり、『1Q84』における始まりだろう。彼女は扉を開け、1Q84年が始まった。ここから書き手は村上春樹というか、つまり僕らの次元の人間、いわゆる『1Q84』が書かれた現実の側に移る。そこでは天吾と青豆が物語の主人公であり、そして彼らは『空気さなぎ』に影響を受けながら紆余曲折して扉を開ける。そこからは現実の僕らが主人公なのか。
……というのは夢を見過ぎか影響受けすぎか。


今回も春樹さん大好きな「恋人の失踪」というシチュエーション。しかしそれはお互いの視点から語られている。そして交わらない。過去の一点で交わり(物語が始まる前)そして以降交わらずに物語が進行し、肉体的に接触することなく終了する。しかし彼らは信じている。


1984年という時代設定でなければいけない理由が推し量れないけど、単に『1984年』という小道具――というか一応中心的なイデオロギーとかのテーマに関係しているけんども――を使うためだけにそうなったわけではないだろうなぁ。実際の1984年がどういう年だったのか、当時小学校にあがるかあがらないか位だから世界のことなぞまったく気にかけず、というか家の周囲数キロと学校だか保育園だかの中ぐらいが僕の全世界だったわけで、全然どんな時代だったのか、その空気はよく覚えていない。あまり読んでいる最中にそれが1984年であるという感じを受けなかった。あるいは覚えていないからなのかも知れないけど。時々考え方とか、ワープロとか国鉄とかというので思いだすくらい。ということで物語にのめり込み、時代は違えども同じ歳である天吾にだいぶ感情移入してしまった。


とりあえず読み終わった直後なのでまとまらず。しかし、なんだ、結局最後まで明かされないまま終わった事が結構あった。んで天吾の生い立ちとか、小松、戎野先生、「さきがけ」、その他のその後とか。
まあしかし流れ去ってしまうというか。実際僕も多くの同級生のその後なんて知らないし。色々実生活との関係で思うところもあり、なかなかの読後感。